少し遠い人形浄瑠璃
日本には、人形浄瑠璃という芸能があります。『浄瑠璃』というのは、物語を義太夫節で語り、三味線の伴奏が入る話芸です。これに合わせて人形を巧みに操って演技させることから、この名前がつけられています。およそ、500年もの歴史があります。2008年、ユネスコの無形文化遺産に、同じ流れをくむ文楽とともに、能楽・歌舞伎と並んで指定され、世界に名だたる日本の伝統芸能となりました。
しかし、実際のところ、今日の日本人にとって、なじみがほとんどないのです。私の70代後半の父母は、鳥取市の中心部で幼少期から高校生までを過ごしたのですが、この芸能を見たことは無かった、と言います。父の父母は能における謡いを教えていましたし、歌舞伎は、ラジオで放送されていたとのことです。鳥取市内に人形浄瑠璃の座が2・3存在していたことすら知りませんでした。
正直を言いますと、私自身、この芸能になじんでいるわけではありません。約20年間住んでいた大阪は、文楽の本場です。しかし、いざ見に行こうと思ったことはありません。その理由は、義太夫節の高低ある発声は耳なじみでありませんし、ストーリーは忠義心や人情に縛られた倫理観でして理不尽に感じますし、そしてのっぺりした顔の人形が人間のドラマを演じること自体、たいそう奇妙に思えます。この芸能を鑑賞するには、ある程度の訓練が必要だと思っています。
私は、今、京都に住んで20年あまりでして、昔の染織品・服飾品を調査研究してきました。この6年間は、海を渡り、淡路島(兵庫県)・徳島県(古名、阿波)・愛媛県で、この芸能の衣裳にフォーカスをあててきました。その理由は、この芸能そのものを理解しているからではなく、およそ100年から70年ほど昔の衣裳に、人々の熱気が感じられるからです。それらは、人形浄瑠璃の一座が、日本各地へ、時にかつての植民地へも旅し、庶民の娯楽として成功していた時期のものです。
この当時の様子を知る人は、ほとんどいません。私が得た人形浄瑠璃の知識は、今から40年ほど前、この芸能が消えつつあることに危機感を感じた人々が書き留めた本や、現在この芸能に携わる人たちが古老たちから聞いた話をもとにしています。
瀬戸内海の神事の技芸から、庶民の娯楽へ、そして郷土の伝統芸能へ
人形浄瑠璃は、16世紀の中頃、瀬戸内海最大の島・淡路島に、西宮戎神社(兵庫県西宮市)で、漁業と商売の神様である戎神のために演じられてきた人形を操る技が、もたらされたのがはじまりです。その後、島の人々の間で技術が高められ、江戸時代(1603~1867)には、島を支配していた徳島(阿波)藩主の庇護をうけ、阿波のみならず日本各地へ巡業するようになりました。レパートリーも神事の踊りから広がって、当時の上方で人気を博していた義太夫節を取り入れ、歴史上有名な武将の物語や町人の悲哀の物語を題材に演じるように
なりました。さらに一体の人形を三人で操る技術も加わって、今日の形が作られていきました。明治時代(1868~1912)になって、淡路島は阿波(徳島)から離され、北に位置する兵庫県に編入されますが、座の中には、島を出て、徳島県に本拠地を移すものもありました。とりわけ徳島には、瀬戸内海と吉野川の恵みにより、藍や塩で財をなした富裕な商人たち、大庄屋たちが、雇い人や村人の労をねぎらうため、公演の場がありました。その舞台は、農閑期の開けた野原に、また神社の境内や集落の集会所に、時には富商の広い庭先に、部材を組み立てて作り付ける、「野掛け」(のがけ 小屋掛け・掛け小屋とも呼ぶ)という野外の舞台でした。公演は、朝から晩まで行われ、日が暮れると油の明かりがともされました。人々はお弁当やお酒を持ち込み、演じ手たちに、野次や合いの手を投げかけるなどして、日々の労働を忘れて心ゆくまで楽しんだそうです。(P2 野掛け)
一方で、各地の都市での劇場公演は、新しい演劇や演芸の人気におされて、ふるわなくなっていました。とりわけ大正時代(1912~1926)の映画(活劇)の登場は、決定的でした。そして、太平洋戦争(1941~1945)の戦時下、演じ手も失われ、娯楽も失われました。戦後、いくつもの座が復活したものの、1954~73年の高度経済成長期、生活と文化の変化の波が農村の隅々にまでおよび、プロの座は絶えたそうです。その一方、徳島・愛媛などの農村部では、早くから地元の人たちで座を作っていました。彼らは、昔から継いできた地元の楽しみと技芸を絶やさないよう、根強く活動を続けてきました。そして、人形浄瑠璃は、1955年からの国や県の無形文化財保護の制度によって支援され、郷土の伝統芸能という道を歩んでいます。
昔の衣裳
昔の衣裳を見ると、薄暗い舞台の中で、いかに見応えあるよう、仕立てられたかがわかります。赤や紫の合成染料で染めた明るいモスリンの生地を、文様の形に切りとって着物にぬいつけた(アップリケ)ものがあります。
た、龍の金糸刺繍柄は、武将や乱暴者を象徴する文様で、どの座にも存在し、最も手が込んで、ハイライトの衣裳に見受けます。これらは、まがいの金糸をふんだんに使ってきらきら輝かせ、中に綿を入れて隆々と盛り上げてあります。大きな目には、ガラスをはめて、どの席からでも龍のにらみが届くように仕上げてあります
。とりわけ刺繍の見応えある衣裳は、竹竿に通し、幾段にも並べて舞台の前に飾りました。この客寄せの飾りを、衣裳山と呼びました。
一方で物を大事にする日本人の心もよく見えます。人間の着物を仕立て直したもの、古い衣裳を継ぎあわせたもの、古い幕やのぼりを裏地に使ったものなど、当時の人の手のぬくもりをも感じます。
今日、このような古い衣裳は、地元の資料館や現在活動している座などに残されています。ただし、その状態は、概してよくありません。そもそも衣裳は消耗品でしたし、近代の染料は色落ちや色移りしやすく、長年の保存環境から虫食いにあうなど、痛ましい姿のものもあります。
現代の作り手・恵子さん
現在、徳島では、人形浄瑠璃の団体(振興会に登録しているものなどによる)は、15、6あり、その担い手として、女性たちが大いに活躍していると聞きます。女性たちは、子育てなど家庭の仕事が落ち着いたころ、始めだすそうです。座によっては8割も占めるそうで、私としましては、女性たちが地域の芸能を支えている状況は頼もしいです。ただ、集客や収益が目的ではありませんから、舞台装置や衣裳への意識は、そう高くなさそうです。
また、人形を操作しやすいように、昔に比べると生地も装飾も軽くしているそうです。特別に華やかな衣裳については、私の住む京都に注文して、西陣織や刺繍のものを仕立てることもあるそうです。現代では金糸もアルミを使っていますので、容易にさびることはないですし、その金糸を刺繍するにも、ミシンで施せるようになりました。もはや肉厚の重たい刺繍は遠いものとなってしまいました。染め柄の衣裳も、私の目には、色がつるんとしていて、デザインも一様に見えます。
そのような中、私は、徳島で、こだわりをもって衣裳を作っている女性に出会いました。
矢部恵子(やべ けいこ)さんは、もともと趣味の日本画で人形浄瑠璃を描こうと思っていたところ、操ってみないかと誘われ、2007年に国民文化祭が徳島で開催されるにあたり、人形浄瑠璃の演じ手を募集していて、そこに参加したそうです。その時、自分が操る人形の衣裳を、見よう見まねで手がけたそうです。その後、人形の頭を彫る教室に通い、そこで教えていた板東米子さん(ばんどう よねこ 徳島初の女性の人形師(人形制作者)・当時80代)に、衣裳の作り方を教わるようになりました。恵子さんは、人形も操るし、頭の構造もわかっているので、衣裳のかんどころが、よくわかっています。髪飾りから足袋まで一人で手がけます。大阪の文楽座から徳島へ移って徳島で座の指導をしている吉田勘緑さんに注文を受けながら、常に工夫をしてきました。
恵子さんは、人形浄瑠璃は昔の物語だし、日本髪や和装には、おだやかで深みのある風合いがふさわしい、そのために、古いきものの生地を選び(絹か木綿)、手縫いで仕立てるのだと言います。自分が昔に着ていたきものや、ネットで古いきものや生地を購入し、洗うなど下ごしらえをし、丈夫さを注意しながら、仕立てていきます。
ある時手に入れた裂は、たいそう汚れていました。恵子さんによると、この裂は、100年前、子供が生まれた時に祝って立てるのぼり幡(ばた)だったのだろうと言います。洗うと泥の中から藍の深い深い色味がよみがえりました。生地をあちこち継ぎ合わせて仕上げた衣裳は、舞台の明かりのもと、にびやかな奥行きある光沢をあげたそうです。藍は徳島の特産品で、日本の庶民の衣料の色でした。恵子さんは、この11年間40着あまり作り、手元にほとんど残っていないのですが、この衣裳を最も心に残ると言います。彼女の藍色へのこだわりが、私の心に刻まれました。
野掛けという装置
私は、恵子さんのような、色や材質による風合いを意識した作り手による衣裳を、野外の舞台・野掛けで見られたならば、この芸能に対する私の違和感も拭えるのではないかと思っています。
愛媛県は、淡路島や徳島の人形浄瑠璃の座が盛んに巡業した先でして、この芸能の種はまかれ、大阪の文楽との交流も深め、南部だけでも5つの座があり、今日も地元の人たちによって支えられています。西予市の俵津文楽は、100年以上の歴史があります。1987年に専用劇場を静かな海のそばに構え、30名ほどの座員が、春・秋に公演を行っています。
90歳になる篠川会長は、義太夫の語り手で、座員たちのレベル向上を求めて厳しく指導してきました。会長の若い頃、地方巡業に行った時、現地の人たちの家に分宿し、その待遇の当たり外れを座員同士で言い合うのが面白かった、また前日にお酒を飲んで操作がままならなくても、観客は気にせずに盛り上がってくれたそうです。そして、当時皆が分担して運んだ、野掛けの建材が、倉庫のどこかに残っているだろうと言います。野掛けの組み立て方を知る人はもはや彼以外いません。
私が訪問した時、座員たちが小学校6年生に発表会のための稽古をつけていました。子供たちが、この地元の座が旅をしてきた歴史を知ったならば、誇らしく思うのでは、と私は想像しています。
今日徳島県では、昔ながらの小さな建物に道具をしこんで公演する、野外の常設の舞台が10カ所あまり残されています。代表的な犬飼農村舞台は、舞台装置が転換する仕掛けが見られ、当時の威風を最も伝えるところです。
これらは、徳島中心部からかなり離れた場所ですが、保存協会の運営のもと、桜や紅葉の季節、県の内外から人々が集まり、思い思いに地べたに座席をとって、歓声をあげているそうです。
いつもの景色に、突如小さな建物が組まれ、水引・のぼりなどが飾りたてられ、明かりがともされ、やかましく音曲が奏でられ、人形が巧みに廻され、人々は皆笑っている。演じる方も、観る方も、お祭りのような楽しみ、これこそがこの芸能の本来の力だと思います。
野掛けがかつてのように旅をして、日本のあちこちで再現されて、私を含め県外の人たちもが、昔の熱気を追体験できる機会があることを願ってやみません。
京都に住まいして20年が過ぎました。京都大学大学院の京都国立博物館の関連講座にて染織史を専攻し、寺院がの文化財の調査・保存・展示に関わる仕事をしてまいりました。人形浄瑠璃の衣裳は、鳥取県の依頼がはじまりでした。目下、寺院のコンサーベーションを行っており、今後も、京都内外の、個人や小規模の寺院の方々にお役に立ちたいと思っております。