ヨークに渡った新潟のわらアート:日本に学ぶ干し草彫刻

ジェニー・ギャロウンとイルサ・ベニオン

24 December 2018

わらアート作家、守屋陽氏から私のもとに1通のメールには、日本で初めて出版されるというわらアートの本の英名が書かれていた。そのタイトルは「わらで地域を再生する」。その出版物やプロジェクトに似つかわしくないタイトルに私の口から笑みがこぼれた。わらアートは西オーストラリア州に何をもたらすのだろうか。そして、それは日本の地方で起きていることと、何か関係があるのだろうか。

English original

2016年、ヨーク・フェスティバルの実行チームは、ヨークのウィートベルト地域の一員という町の特性と視覚芸術とを結びつけるべく、アーティストを招き、ひと塊分の干し草で彫刻を作ってもらうコンペを立案した。そして、ニュンガル族のアーティスト、シャリン・イーガンの意見も取り入れて「干し草チャレンジ」が立ち上げられた。その後2年間、このコンペには、ヨークのコミュニティのみならず、州内のウィートベルト地域全域と都市部のパース、そして他州から参加者が集った。

2017年、日本の巨大わらアート作品がヨーク・フェスティバルの実行チームの目にとまった。稲わらは、畳などの日用品の素材として長く使われてきたが、その際に余るわらをアートに使いたいという声に応え、新潟県で生まれたのがわらアートである。わらで巨大彫刻を作ろうというアイデアは、武蔵野美術大学デザイン科の宮島慎吾教授が発案したものだ。そして、2007年以降、地元ボランティアの協力も得て、年に一度のわらアートまつりに出品する最大9メートルの彫刻の制作が行われている。

わらアートの第一人者、守屋陽氏の現地への派遣がわらアートJAPANによって認められると、それを機に2018年ヨーク・フェスティバルでのわらアート彫刻の制作が実現に向けて動き出した。ひとつめの課題はわらの入手ルートの確保だった。西オーストラリアでは稲わらが手に入らない。そのため、必然的に麦わらでの代用が決まったが、麦わらはふつう収穫後に塊状に圧縮されてしまいこのプロジェクトに適さない。それだけに、この地域では数少ない、刈った麦わらをそのまま山積みにして保管する農家を一軒見つけられたのはラッキーであった。さらに幸運だったのは、その農家からヨークまでの距離がわずか20キロメートルだったことだ。2017年にこの「お抱え」農家が収穫した3トン相当のわらは、輸送用コンテナに密閉され鮮度が保たれたまま2018年春の出番を待った。

日本でのわらアートの大きな目的は人と人とを結びつけることだ。これは、人の心を動かす大作を完成させるのに必要なさまざまな作業に従事する過程で、他者と交流し、問題を解決しながら技術やストーリーを共有していくことが不可欠だからだ。つまり、大事なのは制作の過程やそこで生まれる交流なのであり、作品のテーマやデザインはその副産物なのである。

ヨークでわらアートプロジェクトを行うにあたっては、主に繊維素材や彫刻の関係者からの関心が寄せられるだろうと見込まれた。だが、ふたを開けてみれば、ありとあらゆる職種の150名超ものボランティアが集結した。彼らは、約1300時間を費やし、オーストラリアの絶滅危惧種をかたどった3体の動物を制作した。ボランティアの2割はヨークの町の住人だ。オーストラリアの多くの田舎町と同様、アートにとっつきにくさを感じ猜疑心が強いというこの町民の傾向を思えば、これは驚きの率である。ほかにも、ニューサウスウェールズ州のカトゥーンバや西オーストラリア州の州都パース、そして同州南西部のアルバニーやエスペランス、マンジマップ、ナナップ、ドウェリンガップの町からもボランティアが集まった。現地の日本人コミュニティを率いたのは、在パース日本国総領事の平山達夫氏とその妻、そしてシェフをはじめとするスタッフである。彼らは幾度となくヨークを訪れては仲間に加わり、チームを鼓舞して、おいしい日本料理を届けてくれた。

このプロジェクトは、わらアートの第一人者である守屋陽氏と、パース在住の彫刻家のフィオナ・ガビーノ氏、高橋祐子氏から新たな技術を学ぶ貴重な機会となった。あるボランティアは、スチールの鍛造や、かんたんな竹の加工でできる針を手作りした。竹割り器やなたなどの道具は日本から輸送された。

守屋氏はヨークに到着するとすぐに、2017年の収穫後から保管されていたわらの視察に赴き、麦の穂が残ったままのわらを見て、目の前の素材をどんな作品に変身させられるか、さまざまな可能性に思いをめぐらせた。

ボランティアの最初の仕事は、作品表面の覆いとなる「とば」を編むのに必要な1×2メートルの木枠作りだった。次の作業はわらの下準備である。麦わらに残った葉を取り除く工程では、葉を落としたり、皮をむいたり、息を吹きかけたりする特定の作業を指す造語が笑い声混じりに考案された。その後、木枠の上にわら束が並べられ麻糸で縫って固定された。とば編みと呼ばれるこの作業は制作期間中ずっと続き、その総数は200にも及んだ。次に、骨組み作りに向け竹割と木材の切断作業が始まった。

守屋氏は、方眼紙に描いた有袋動物のビルビーとクビカシゲガメ、ホワイトベリード・フロッグと呼ばれるカエルのデザイン画とマケット(小型の木製モデル)を用意して、骨組みに使う各部の木材の長さを割り出し、日本から持参した。この詳細なデザイン画とマケット、具体的な数値は英語と日本語の二言語でコミュニケーションをするうえで重要な橋渡しとなった。

ヨークの町を走る大通りの一画でビルビーの制作が始まった。当初は、「これは何?」「何のわらを使っているんですか?」「これは後で燃やすの?」という質問の声があがったが、骨組みの形が見え出すにともなって次第にその声はやんだ。そうやって完成品のスケールが見えてくると、皆の心も躍った。

ビルビーが完成すると、すぐにクビカシゲガメの作業に移った。時間がどんどん過ぎていく。ここでもうひとがんばりして地元のボランティアを増員する必要があった。そこで、ソーシャルメディアや地元のラジオ局、パブや商店、カフェでボランティア募集の告知が行われた。その呼びかけは実を結び、新たなボランティアが加勢してカメの残りの作業とその後のカエルの作業を手伝った。制作作業はもはや、町全体、そして町民1人ひとりにとって自分ごととなっていた。地元の子どもたちは、学校帰りに自転車で走りすぎながら声を張り上げて感想を伝え、スクーターに乗ったおばあちゃんたちも日ごと訪れては進み具合を見物していった。さらには、焼き立てのスコーンやケーキ、ビスケットがひんぱんに届けられ、参加者の腹を満たした。多くの人が、一度や二度ならず、毎日のように何週間にもわたって制作現場に足を運んでは見学していった。

守屋氏と高橋氏、そしてコーディネーターであるイルサ・ベニオンはヨーク・ハイスクールの集会に出向き、子どもたちの前で話をした。すると、アートを学ぶ10歳から13歳の学生が作品とデザイン、マケットと作業風景を見学しに団体で制作現場を訪れてくれた。

わらアートはヨークに何をもたらしたのだろうか。西オーストラリア最古の内陸都市は、農業の歴史を独自のパブリックアートのプロジェクトで祝すことで、文化的な主張を打ち出し、地元のみならず、広域のオーストラリア、ひいては日本との絆を創りだした。さらに、居住環境の破壊や野生化した捕食動物によって危機にさらされている生き物をモチーフにすることで、これらの動物への意識の向上ももたらした。使用された素材は、西オーストラリアから日本に輸出される麦を表す意味も込められている。また、1か月に及ぶヨーク・フェスティバルの来場者は50,000人近くに及び、300万ドルもの経済効果をもたらした。こういった具体的な成果はかんたんに確認できる。開催地では作品にいたずらされるのではないかという懸念もあったが、今のところその形跡はない。

わらの作品は常設できない。日本の場合、展示が終わったわらアートはヤギの餌として活用される。だが、ヨークのわらアートは消えることのない成果を残した。それは、共有の精神とコミュニティの誇りである。つまり、技能と体験、アイデアを分かち合うだけでなく、人と人との交流も含めた広義の共有と、大きな注目を集めたパブリックアートのイベントに参加したという誇りである。参加者は手を動かしながら多くの会話を交わした。立場の異なる者同士が、家族の歴史や麦への思い、日本文化、オーストラリアの田舎町について語り合う声を聴くのは心あたたまるひとときだった。ヨークのコミュニティは確かに、わらの力で活性化されたのである。

わらアートJAPANは、2019年春に西オーストラリア州ヨークで第1回わらアートサミットの開催を計画している。

ヨーク・フェスティバルのわらアートプロジェクトは、フェスティバルズ・オーストラリア、豪日交流基金、地方自治体および文化産業省、シャイア・オブ・ヨーク、ヘルスウェイによるアクト・ビロング・コミットプログラムからの支援によって実現したものである。

執筆:ジェニー・ギャローン(ヨーク・フェスティバル・ディレクター)、イルサ・ベニオン(わらアート・プロジェクト・コーディネーター)

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