工芸存続のニューモデル:経験経済の事例を考える

ケビンマレー

24 December 2018

筆者は30年以上にわたってメルボルンのクィーンヴィクトリア・マーケットに通い続けている。生鮮食品と工芸品が呼び物のこのマーケットは、近年、外国人観光客の増加が目立つようになった。そこである店主に「商売人にはありがたい話ですね」と言うと「とんでもない。売り上げは下がるいっぽうだよ。皆写真を撮りたいだけで、何も買っていきやしない」という返事が返ってきた。

English original

これはよく聞く話である。家族や友人への土産物はソーシャルメディアでの画像の共有に取って代わられた。これはいったいなにごとなのだろうか。そしてこの現象は工芸の未来にどのような影響を及ぼすのだろうか。

この新しい消費形態は多くの人に「経験経済」と呼ばれている。この言葉は、アルビン・トフラーによる『未来の衝撃』(1984年)に由来する。この経験経済はサービスへの転向を表し、「技術社会がひとたび産業発展の一定段階に到達すると、その技術社会は生産活動のエネルギーをサービスのエネルギーに移し始める」(トフラー 1984、徳山訳 1971)。トフラーによれば、この経済は彼が呼ぶところの「経験をつくる人々」によって動き、彼らは消費体験を向上させるうえで心理学を活用するのだそうだ。この傾向は1998年のハーバード・ビジネス・レビューで「経験経済」と名付けられた(パイン・ギルモア 1998)。

当初、この動向はマーケティングの段階でブランド・アイデンティティを考える際のヒントとされることがほとんどだった。コカ・コーラはもはや単なるリフレッシュ用の飲料たることをやめ、友人とのくつろぎのひとときという経験をパッケージングするという目的が課されるようになった。ナイキも高性能ランニングシューズの域を脱し、強固な意志の表明と化した。

だが、最近ではブランド・アイデンティティの方向性が製品自体から一過性の経験へと移行しきっている。アメリカン・エキスプレスの広告は「時代は買いたいものリストから死ぬまでにやりたいことリストへ」と説く。ホテルズドットコムとグローバルマーケティングリサーチ会社のイプソスがつい1年前に発表した調査結果によれば、中国人旅行者の3分の2は、旅の主な目的は買い物だと回答したそうだが、今年に入って同じ調査を行ったところ、買い物が旅の主な目的だと答えたのは全体の3分の1にとどまり、高級な食事と旅先での経験がそれを上回る結果となった(Chinese International Travel Monitor 2018)。日本最大の小売チェーンを展開する会社を率いる青井浩氏は「外に向けてファッションを表現する傾向が薄れ、食料品や外食、レジャーなどの体験を筆頭とする自己満足の概念が商品化している」と語る

英国では、レクリエーションの消費が年間8パーセント増加した一方で、ファッションへの消費は減少した。英国内のある研究によれば、ミレニアル世代の4人に3人は、お金を払うなら、形のある物より体験やイベントがいいと考えているという(Eventbrite 2018)。

これは何が起きているのだろうか。ギー・ドゥボールは、1967年に『スペクタクルの社会』で(ドゥボール [1967] 2000)、積極的に参加する対象としてではなく、劇場の一形態としての文化に関心が高まりつつある社会秩序を描写した。これは、セレブへの注目の高まりや多種多様な大きさのスクリーンが優位なライフスタイルに関連づけられる。この近代化に対するディストピア的な見解は、時間の加速をうながし、人々から共有の足場を奪い去る。マルクスの予見どおり「堅牢なものは悉く氣化し」てしまうのだ(マルクス・エンゲルス [1848] 2018、堺・幸徳訳 1945)。

メキシコの死者の日の祭りを描いたディズニーアニメ『リメンバー・ミー』では、このような価値観を物語る一例が興味深く描かれている。主人公の少年は歌手になることを夢見るものの、家族からは、無謀な夢を追うのはやめて靴作りでも学んで手に職をつけろと言ってたしなめられてしまう。ディズニーやネットフリックス、フォックスといったエンターテイメント界の超大手がこの物語を一押しする理由はおわかりだろう。彼らは、視聴者に生産的な活動ではなく、ソファの上で自社作品を一気見することに時間を使ってほしいのだ。

戦後の産業経済は、物の所有、わけてもマイホームと車の所有を軸に回ってきた。だが、私たちと物との関係は短命化しつつあり、そのことはソフトウェアやエンターテイメント系コンテンツの定額サービスといった商品のレンタル化傾向からも明らかである。

物作りの現場では見栄えのよい写真が撮れる。InstagramやFacebookには、手間暇かけて見事な作品を作る職人の作業風景であふれかえっている。だが、当の職人にとってこういった投稿はどんな得があるのだろうか。

ここまで工芸にとって酷な現実を並べ立ててきたことは筆者も自覚している。だが、この「経験経済」は、ニーズに合わせて適用すれば、工芸にとって新たなそして重要ないくつかの機会をもたらしてくれるものと信じている。

筆者が住むオーストラリアでは、工芸は陰りとは縁遠い。具体例としては、一般人を対象とした工芸系のワークショップのブームが挙げられる。夜間の陶芸教室は予約がいっぱいだ。その典型は、一日中コンピュータの画面ばかりを眺め、世界と隔絶された気分に陥った会社員が、確かな手ごたえのあることをしたくてロクロにその体験を求めるといったところか。

確かに、一般人を対象とした工芸系のサービスは新たな道を通じて成長を遂げているように見受けられる。世界有数の工芸都市、京都には、清潔で効率的かつ友好的な国にあこがれて訪れた外国人観光客が殺到している。だが、巨匠が手作業でしあげた工芸品は、一般的な観光客の多くに手が届く価格帯ではない。また、工芸品の代表格ともいえる着物もかつての市場を失いつつあり(ハレーブン 2002)、中国製のポリエステルの着物をレンタルして挙式を迎える花嫁も増えている。

その傾向に応えるように、京都市は京都伝統産業ふれあい館とタッグを組んで京都工房コンシェルジュを立ち上げた。観光客は、このサービスを通じて、工房の一日体験を楽しみ伝統工芸に触れることができ、着物の織り方や、ネクタイの染色、漆、うちわ作りや香作りなど、豊富なラインナップから選ぶことができる。YouTubeには、提灯職人による竹割りから紙貼り、絵付けまでの一連の作業を写した動画がアップされている。この動画は、3人の若い観光客が職人から小型の提灯作りを教わるシーンへとつづく。もちろん、職人の技術は1日で習得できるようなものではない。そのため、1日体験では複雑な工程ははぶき加工済みの素材を使った最低限の作業に凝縮されている。それでも、観光客は、お茶やおやつの時間をはさみながら、日本の伝統的な工房で思い出に残る1日を過ごすことができる。その記憶は、あわただしい職場の雰囲気とは対照的な、静かで集中した時間で満ちているはずだ。彼らは自分の腕前を試せるだけでなく、工房を出た後も残る物を作ることができる。経験だけでなく、その経験が形になって残るのだ。

同様のモデルは日本のほかの都市にもみられる。富山県は宿泊と手仕事体験とを一体化させたベッドアンドクラフトサービスを提供している。東京では観光客が参加できる手ぬぐい作り教室が開催されている。ほかにも東京ガラス工芸研究所では、一見すると専門的な技術が求められそうな吹きガラスですら1日で体験できるという。

この「手仕事体験」への注目は、どう評価すべきだろうか。筆者にとって特に気がかりなのは、これらのサービスが必ずしも芸術性の高さに関心を払っていない点である。ワークショップは作り手にとってありがたい収入源にはなっても、自身の作業時間、特に展覧会に出品できるほどの質の高い創作に従事する時間が奪われてしまう。この問題が顕著にあらわれるのは工芸の分野だが、体験、とりわけ新たな方法で人と人とを結びつける体験をひとつの表現だと考える新たな実践も行われている。アーティスト、リクリット・ティラバーニャはギャラリー空間から作品を一掃し、代わりにキッチンを設営しタイ料理を提供したことで有名だ。だが、彼がナショナル・ギャラリー・シンガポールのために作った最近の作品では、竹で茶室を作り、手製の陶の茶器でもてなした。その物自体は一級品ではないかもしれないが、このような展示方法を考え出した想像力は注目に値する。

工芸界の「経験経済」を前向きに解釈するならば、工芸の日常生活への回帰が提示されている点である。周知の通り、多くの工芸品は、神への供物、特に寺院の装飾や、偶像やその装身具の制作を通じ、象徴的な役割のために発展してきた。これらの工芸品は礼拝や集団での食事、通過儀礼等の祭事においてその真価を発揮した。そのため展示台に鎮座した作品を見て、その儀式的役割を理解するのは難しい。現状では、茶会を除いてはそのような性質を帯びた体験の提供は行われていないようである。工芸品の儀式的価値の奪還は未来に託されているといえるだろう。

現代人が考える工芸といえば、陶器やジュエリーなど、永続する物体だ。これは元来貴重品文化の現存品を扱う考古学の成果の一端でもある。だが、この工芸観には、耐久性の高い売買可能な物品に価値をあたえてきた産業経済のありようも反映されている。

アジア太平洋工芸エンサイクロペディアの編纂における課題のひとつは、それが包括する地域内で、工芸の定義にばらつきがあることである。陶芸、金工、繊維、ガラス、木工という西洋式の5分類には収まりきらない工芸品が多く存在したからだ。それには、ランタンや傘、人形など複合的な技術の産物も含まれる。だが、最大の課題は、石鹸や香といった長く形を残さない西アジアの手工芸品の扱いであった。

工芸品の価値は、長く残る物にしか宿らないのだろうか。この問題提起は、飲食の支度や修繕といった日常レベルの技術へ目を向けることでもある。これらの手仕事はいまや、ヒップスター世代の大きな関心事である。ヒップスター文化は過去に、レコード盤などの時代遅れのテクノロジーを愛でるひねくれものの流儀として一蹴されたが、近年になって本格的な広まりを見せており、その傾向は「Masters of Craft: Old Jobs in the New Urban Economy(手仕事の達人:新たな都市経済に見る過ぎし日の仕事)」(オケージョ 2017)にも書かれている。同掲書では、肉屋や酒の醸造、理髪店といった手仕事の復活に従事する、中産階級育ちの男たちが紹介されている。

今こそ、ワールドクラフトの分野を見直す時ではないだろうか。当初、産業の制度への反発として起きたワールドクラフト運動は、独自の価値観を築き上げてきた。ポスト産業社会を迎え、工場ではロボットが労働を担う今、長く残らない手工芸品も工芸の一種として考える機会を獲得したのではないか。

これは、現代のこの世界に工芸の力を見出さんとするGalrandマガジンの歩みを導いてきた見解でもある。その重要な例は、タミル人の一大移民コミュニティを抱えるモーリシャスに見つけることができる。このコミュニティの芸術系学生の多くはマハトマ・ガンディー・インスティテュートに通い、彫刻などの西洋式の制作スタイルを学ぶ。そのいっぽうで、彼らは文化的な祭事で使う花を使った彫刻作りにも参加する。この花の作品は、ギャラリーでの展示用に作られるわけではないため、芸術作品としては存在しないも同然である。だが、その技術と伝統の融合は、私たちが尊重し支援したいと考える工芸観を反映しているという点で注目に値する。

このことは多くのアボリジニ文化にも当てはまる。彼らはワールドクラフトの世界における居場所を懸命に模索してきた。高い技術で作られた彼らの作品は美しく意味深長だが、式典でその役割を果たし終えると、用途がほとんどなくなってしまう。

だが、過去にばかり目を向けるべきではない。映画産業は一見すると、地域単位の工芸文化の創生の妨げになりそうなものだが、工芸分野に付加価値を与えている例は多い。近年のヒット作『ブラックパンサー』にはアフリカの伝統的な文様を取り込んだ新たな形の装身具が登場し、アフリカジュエリーへの関心の再熱をもたらした。また、前掲のディズニー映画『リメンバー・ミー』は、オアハカ州で作られる奇想天外な木彫りの動物彫刻、アレブリヘスを着想源としている。この映画のヒットはこの彫刻の需要の増大を促した。

筆者は、この工芸「体験」の本質を批評的に考察することなしに、盲目的に時流に従うべきだと説きたいわけではない。傑作と呼ばれる作品群の重要な役割は、時代を超えて人の心をつかむことである。こうした作品は、次世代へと受け継がれ技術的達成の極みを体現する。それとは対照的に、経験の場合はそれがどんなに強烈なものであっても、個人単位の記憶に帰結してしまう。買い物よりも食事が人気なのは、土産物を買う動機となるはずの、人との強いつながりを維持することへの関心が薄れているせいなのかもしれない。

私たちは、経験経済を従来の工芸に対する脅威としてとらえ、抵抗を感じがちだ。だが、この新式の経済体系は、工芸品が生活への回帰を果たす上で重要な方法を探る機会を提示してもいる。それと同時に、専門技術や革新が失われる可能性について意識的になる必要がある。筆者には、経験経済がその対抗措置となるとはあまり思えない。優秀なスポーツ選手や音楽家が、継続的かつ総合的な支援を必要とするのと同様、工芸界の精鋭にも同様の支援が求められる。さあ、未来へと続く道は見えた。その歩みをどう進めるかは私たちの手にかかっている。

参考資料

Chinese International Travel Monitor. 2018. Hotels.com.

Debord, Guy. (1967) 2000. Society Of The Spectacle. Black & Red.

Eventbrite. 2018. “Millenials: Fueling the Experience Economy.”

Hareven, Tamara K. 2002. The Silk Weavers of Kyoto: Family and Work in a Changing Traditional Industry. University of California Press.

Joseph Pine, B., II, and James H. Gilmore. 1998. “Welcome to the Experience Economy.” Harvard Business Review, July 1, 1998.

Marx, Karl, and Frederich Engels. (1848) 2018. The Communist Manifesto. Skyhorse Publishing Inc.

(和訳の引用元は、カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス著1945『共産黨宣言』堺利彦・幸徳秋水訳、彰考書院)

Murray, Kevin. 2018. “Telling Stories through Craft.” In Qingdao International Craft Forum.

Ocejo, Richard E. 2017. Masters of Craft: Old Jobs in the New Urban Economy. Princeton University Press.

Toffler, Alvin. 1984. Future Shock. Reissue edition. Bantam.

(和訳の引用元は、A.トフラー著、1971『未来の衝撃 激変する社会にどう対応するか』徳山二郎訳、実業之日本社)

Like the article? Make it a conversation by leaving a comment below.  If you believe in supporting a platform for culture-makers, consider becoming a subscriber.

 

Print Friendly, PDF & Email

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

Tags